ヘタなリーダー論より『水滸伝』を読め!と思った話
前々回にもちょっと登場しましたが、北方謙三大先生による『水滸伝』を読んでいます。
買ったはいいものの、何年も眠らせておいて、満を持してというか覚悟を決めて読み始めました。
だって文庫で19巻ですよ! そしてものすごい面白いと聞きまくっている名作。これは覚悟いるでしょう〜。
中国には、
「老不看三国、少不看水滸」
ということばがあるらしく、
「歳を取った人は『三国志』を読まないほうがいい。
若者は『水滸伝』を読まないほうがいい」
つまり、
「歳を取った人は『三国志』を読めば読むほどさらに知恵がついて、ずるくなる。
若者が『水滸伝』を読めば読むほど気性が激しくなる。」
という意味だそうです。
(『京劇への招待』より/魯大鳴・著)
これは『水滸伝』を読む前に知ったことばでしたが、もうね、なるほど〜〜としか言いようがありません。
わたしは読み始めてから、まだ3巻なのですが、まあ槍をぶんまわしたくてしょうがない。(笑)
どっかに林冲はおらんかね! 林冲!!! っていつも内心叫んでおります。林冲ってもうとんでもなく槍が上手い人なんですけど。強すぎてまっすぐで、悩んでいて、愛しいんですよ。マジ妻にして欲しいんですけど! みたいな感じです。
まああの、強いて言えば王進の嫁になりたいし、っていうか燕青を抱き締めたいんですけど。(女のような肌をした腕の立つ美男)
(これは京劇の林冲。足で剣を拾うシーン、マジ見たい!)
もともと中国武術にとても心惹かれるわたしですから、読んでいて血が滾るとしか言いようがない状態になります。
自分がまるで宙を舞って一瞬で5人くらいの敵をぶっ倒しているような気分になる。
読んでいるだけで達人になった気になる。万能感に溢れる。なんと単純。(笑)
これも北方謙三先生の、削ぎ落とされた、選び抜かれた表現のなせる技なんだろうなあと思います。そして創造力。
だって水滸伝自体、残っている原作的なものはすごく破綻していて、何コレ、みたいなものだそうで、そこから北方先生が完全に構想を練って小説として「作り上げた」のが、この『水滸伝』だそうですよ。
もしかすると凡人が原典を読んでも、なにこれつまんな〜い、ってなっているのかもしれないけれど、北方先生がものすごい時間をかけてついに上梓! してくださったから、もう紙と文字の向こうにずぼっと入り込んで、そちらの世界に住める。
いやもう、小説家ってありがたすぎるよ、と頭を垂れたくなります。真に知らない世界を見せてもらえる。
自分まで宙を舞っている気にさせてもらえる。いやはや。
……あ、いかんいかん、『水滸伝』へのアツい想いだけで何千文字も書いてしまうところだった。
表題にも書いたんですが、そう、
ヘタなリーダー論より『水滸伝』、ヘタな哲学・自己啓発書より『水滸伝』。
3巻まで読んで、しみじみと思う。
なんど電車で人前で、ちいさく唸ってしまったことか! 仰け反ってしまったことか!
(ちなみに10ページごとに目頭熱くして、っていうかよく泣いている)
自分も30年ちょい生きてきて、いわゆるリーダーといわれる人たちをそれなりに見てた。
会社員をやめて起業家の世界というものを垣間見て、すげーなと思うひともいれば、「ファッション」リーダーだなと思うひとも見た。
このファッション、というのは、いわゆるお洋服のファッションではなく、なんちゃって系の意味のほうです。
つまりリーダーであることを装っている、というのかな。あまりおよろしくない意味で。
要するに本物のリーダーじゃない、ということ。
で、『水滸伝』を読んでいると、今の国のあり方への叛乱の話ですから、同志が集まり、頭が出てくる。
というか頭の元に、同志が集まってくる。
なんともいえない魅力に、熱い想いを胸の奥で眠らせていた人々が、集まってくる。
男たちが一瞬で心奪われる瞬間が何度も何度も描かれるんですが、これが見ていて気持ちが良い。
さらにそれだけではなく、かなり大きな要塞を築き上げたリーダーが、
本当に強い男たちによって、その小心っぷりを見抜かれるところも描かれている。
これがもう本当に、「まず水滸伝を読め!!!」って言いたくなるところです。
(まず風俗にいけ! という北方先生の名言のようですね)
警戒心ばかりで器もちいさく、自分より上に来るような奴が来ると暗殺しちゃう。
表ではにこにこ接しているんだけど、毒とか盛っちゃう。
義を声高に叫んで盗賊になったでっかいところの頭なのに、お前にはがっかりだよ!! と、読んでいる方としても叫びたくなる。
でもこれって現代でも、日常でもほんっと〜〜に多くあること。
男も女も、群れたら、こういうことを目の当たりする機会は多い。
お水の世界とか顕著なようだけど、それだけじゃないよね、本当に日常、サラリーマンの世界だってあるだろう。ママ友のグループにだってあるでしょうよ!
いや、無理な話じゃん、だって。
真のリーダーなんて滅多にいないだろうよ。いないよそんなビッグな器の人はさ。
読んで怒って唸らされて、そうだそうだ〜! と思っても、すぐにそう言いたくなりますよ。
それでもリーダーでいようと思うのならば、リーダーについていこうと思うのならば、2巻から以下を引用したいと思います。
「いつか林冲に手を貸すことで、自分は生きているのだ、と感じはじめていた。
それは、不思議な変化だった。
いままでの自分の小心さも、王倫を頂点に仰いでいたからだ、と思えるようになったのだ。
もっと別な人間が頂点にいたら、自分はいまと違う人間であり得ただろう。」
(『水滸伝』2巻より)
この一文に、リアルなリーダー論が、人生哲学が凝縮しているとわたしは感じました。
まるで責任転嫁をしているような感じで書かれているけれど、そうじゃない。
自分が志を持って、0/100で信じてついていった人、身を置いた環境があって、でもいつになったら事が動くのだ? とやきもきしていたり、口だけは立派に志を語って実際は現状維持、つまり本当の意味で一歩踏み出すことや進化をしないで、志を語る自分に陶酔し、そういう人々が集まる場にいるだけで、やっている気になって満足している。
知らぬ間にそんなふうに腐っていた自分に気づいた瞬間というのかな。外の世界を見て。
結局実際に闘いに出ないから、緊張感もなく、必要に迫られて動くなんてことはない。
義のためといっているけど、結局自分の地位を動かしたくないリーダーの王倫がいる。
実際は戦うのにも、たぶんビビっちゃってる。
義のためと思って王倫のやり方についていったけど、だんだんこれは違うだろ、というところにいる自分がいて、でもそれでも今のままでいれば自分も良い思いができるから、惰性で生きていた。
そういう自分に、外からやってきた林冲を見て気づかされたという感じ。
この一文を読んで、本当に心底、下手なリーダー論や哲学書より、簡潔だわ! と思ったのでした。
リーダーっていうのは、こう部下に思わせなきゃいけないだろうということ。
そして自分がリーダーでない場合は、ついていく人を見極めないとだめだろうということ。
外の世界は広い。
広い中国のなかにあるひとつの村や地域、軍で、自分が最強! って思っている男たちがたくさんいる。
槍では俺が一番! と思ってるんだけど、そこにやってきた林冲と手合わせをすると、もう世界が違うことに気がつく。打ちのめされる。
自分がいかに狭い世界で、裸の王様をやっていたかに気がつく。
中国でなくても、昔の話でなくても、これは、いまを生きる我々にとっても、完璧に同じことなんじゃないでしょうか。
『水滸伝』に限らず、日本の昔の戦国時代の話でもそうだろうけど、極端に表現した世界というのかな。
今は無駄なことが増えすぎて、いきなり斬るか斬られるか、みたいな時代じゃないから、人々は複雑に考えるようになってしまっているけど。
だけど本当はこういうこと、それ以上でもそれ以下でもない。
結局物理的な刀でなくても、人生ってつきつめれば、斬るか斬られるか、という境地になってくると思うし。
すごく曖昧だけど、なんとなく伝わる人には伝わるのではないかなと思います。
人って結局ひとりでは生きていけなくて、真のリーダーに自分がなれないのなら、誰かについていく(応援する)という道になるのだろうと思う。
どんなに群れたくないと思っても、社会では群を抜く人というのが必ずいて、そういう人たちが前にいく限り彼らは社会や時代のリーダーになっている。
自分がうしろにつこうと思ってなくたって、社会や時代、文化のリーダーに彼らががいるのなら、自分たちは否応なくうしろについていっている凡人。
いまはプチ女子起業も増えて、いわばみんなリーダーだけど、本来は全然そういう器じゃないだろという人もリーダーやらないといけないから、こじらしているのだろう。
みんなリーダーになれといったって、無理な話だ。
いきなりみんなリーダーになりたいっていうのも無理な話だ。
それだからよけいに、みんながリーダーだとか、競争しなくていいとか、そういう話になって誤魔化されているんだろう。
裏では、やっぱり人より上に出たいって、殴り合いなくせに。(笑)
確かに穏やかな場所もあって、平たく、みんながひとりひとり、横に繋がっている世界でいられるのかもしれない平和な現代だ。だけど、やっぱり誰かがリーダーになってゆく。
(その人が孤立していたとしても、勝手に人がついていく)
そのとき、自分がどのリーダーについていくか、というのは、本当に大事なこと。
誰かを崇めるとか、そういう話じゃない。
誰から教えを受けるかで、人生はまったく変わってくる。
器のデカい、ブレない、言行一致しているリーダーを選びたいものだし、自分がリーダーにならざるをえないときは、そうでなければならないね。
まあ『水滸伝』読んでいて思うことは、わたしはつくづくリーダーには向かないよ、ということでしたが。無理だね。潔くないもん。(笑)
すぐに同情するし、全部を欲しようとするから、ダメ。なにより小心。
でも誰かについていくほうが楽とか、そういうのは全然思えないから、リーダーである素質を身につけていかなければならない。実際に誰かの上に立つとかではなくてさ、気概です。
だって、器がデカくて、ブレなくて、言行一致して、潔い人間になりたいじゃないか。
全員リーダーであれ、みたいなこという本があると思うけど、つまり全員そういう人間になれよって話だと思います。特定の誰かがそうであればいいわけじゃないしね。
最後に、面白い話をもうひとつ。
ダメリーダー、王倫。
みんなの志を刺激するような話し方をするのが、とかく上手い。
巧みにみんなを刺激するから、みんなもまたその気になる。
我々は同志だと言う。
しかし実際は自分が作り上げた国の、帝になりたがっている。
しかもたぶん無意識に。
だから側近の兵士のことを、密かに「禁軍」(近衛隊)とか呼んじゃう。
自分を立ててくれない者は、投獄。
言うこと聞かないやつは、処刑。
わたしは部下といっしょに、これほど小さい男だったのか、と、舌打ちをしたくなる。(笑)
本当のリーダーは、何もしなくとも、そのあり方で人を心を打つものだ。
そしてかならず言行一致する。
これがもっとも、難しいが、やはり結果を出しているリーダーは、やる。
わたしも『水滸伝』を読んだだけで血の気が多くなっちゃって、自分はやれている、なんて、そんな不細工な勘違いはしないようにしないとな。
それくらいにアツいです、北方版の『水滸伝』。
未読の方はぜひ!
っていうか、マジで、いい男ばっかりで惚れるから!!
ただし睡眠不足になっても責任はとれません。